8/02/2012

ある駐在会社員の日常 1 外国語

海外それも非英語圏で駐在をしていると、たいていまず「言葉はどう?大丈夫?」と聞かれる。

二年勤務した実感から言うと、この質問はあまり重要に感じられないので、答えるのが難しい。
語学研修期間が長ければ当然その分外国語は上手くなるし、すぐ現場投入されれば、そこそこのまま何とかしてやり切るしかない。それだけのことだ。

そして、外国語ができたところで、仕事ができなければ意味がない。
いや、言葉が流暢でなければ仕事にならないだろうと思われるかもしれないが、必ずしもそうでもない。それは現地法人の経営環境による。日本語だけで済んでしまう環境の人もいるだろう。ただ、通訳人員を置くほどの余裕がある企業も限られているし、現地化が進んでいる企業の方が多いと思う。

現地化が進んでいて、駐在員は現地語を使い管理職として働くことを想定しよう。
その環境で下のAとBの二人がいるとする。というか実際にいる。

A 現地語は流暢に話せるが、現地スタッフと衝突しがちな駐在員
B 外国語に苦手意識を持ち、気後れして持っている力が発揮できない駐在員

どちらも実際に駐在員に十分ありうるケースだが、どちらにも足りないものがある。
Aは言語運用能力が無い。つまり巷で言うところのコミュニケーション能力だ。コミュニケーション能力という言葉は「人間力」のように何を指しているのか判りづらいが、僕は「自分のやらなければならない事を明確にし、他人に説明でき、理解してもらい、その為に必要な協力を引き出す能力」のことだと考えている。

僕は今まで、外国語習得能力と言語運用能力は一体不可分のものであると無意識に思っていた。けれど、この2年間の経験で、その二つは全く別の能力だと考えるようになった。TOEICで900点とっても英語喋れないとかいうことではなく、喋れるのに意図を通ずることができない人がいるということだ。
よく考えれば、日本語でも何を言ってるのかわからない奴というのは何処にでもいる。でも外国語をペラペラしゃべっていると、何か頭が良さそうに見え、意味がありそうなことを喋っているように思われてしまったりする。この”スモーク”の様な、逆色眼鏡の存在(つまるところ外国語コンプレックス)が、日本人の外国語に関する姿勢を歪めているように感じる。

一方、Bのパターンのようにせっかく日本で実績を積んで認められて海外に赴任しても、外国語コンプレックスでそれが十分に発揮できず、実力が発揮できないというケースがある。はっきり言うと、この場合は本人に実務能力が無いと断じられてしまう。外国語ができないことより、言葉で気後れしてしまうこと自体が現地スタッフからみたら子供じみて見えてしまう。その上、実際に仕事を遂行していけないから、本社から見ても実力なしと映ってしまう。

違う角度から考えてみる。例えば、日本で働いていて、いきなり上司がフランス人になったとしよう。その上司はまず絶対日本語を喋らない。勉強すらしない。であなたが必死に英語でも勉強するハメになるのだ。
上のケースで職場を新興国、フランス人をあなたに置き換えてみればいい。なぜ上司であるあなたが気後れしないといけないのか。むしろ英語ですら話せなくても関係ない。グローバルスタンダードと自分の職場の公用語が同じである必要など全くない。

ところで僕は外国語に関して「気持ちが大事」「気持ちがあれば通じる」という言い方が嫌いだ。僕からすると、それは殆ど何も言っていないに等しい。そもそも気持ちがないなら海外で働いていないはずだ。

上のAとBの両ケースで共通するのは、自分の意図を伝え、相手の意図を汲み、物事を進める力の必要性だ。僕はこれを裏打ちするのはロジック、論理性だと考えるようになった。思うに、それは「気持ち」で解決するものではない。その「気持ち」自体に文化の違いが埋め込まれていて、逆効果になることもある。というかそういった文化の差異を乗り越えられるのがロジックだと思う。

翻って、日本語でも何言ってんだかわからない人が意外に多い理由は、日本の教育で論理的思考を鍛える学習がおざなりになっているからではないかと思うに至った。つまり、この論理的思考能力は決して海外だから必要になるものではない。他人と理解し合う為に必要なのだ。

自戒を込めて。

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