10/26/2012
結婚について語るときに僕の語ること
僕は27歳で結婚した。
僕は社会人3年目くらいで、職場でも認められ始めていると感じていた頃だった。
結婚するまで実家住まいだったので、他人と毎日同じ部屋で暮らした経験はなかった。
よく、新婚時代はたくさん喧嘩すると言うけれど、案の定、僕も例外ではなかった。
それまでは自分一人の部屋で、誰にも邪魔されずに時間を過ごしていたのだから、
慣れないに決まっている。
それで僕はよく怒っていた気がする。
男は左脳ばかりで考えるのか、怒っている時に僕は理屈を立て、
―― いろいろ考えたがやはり自分のほうに理がある。そのうち嫁はそれを理解しなければならなくなるのだから、今は僕が我慢しておけば、きっと向こうは自分の過ちに気付くに違いない。ここは大人になろう ――
たいていはそんな風に考えていた。
でも、そんな風に考える回数があまりに多く、その事自体が嫌になってきたので、
そのうち僕は自分自身の分析を始めた。
「なぜ僕は怒っているのだ」
いや、分析をしたのではなくて、本当は、ただ思い出したのだった。
— 僕は寝起きが悪い。
そのことは子供の頃から人に言われていたので、自分でも分かっていた。
ある時、また家で怒っている自分に気がつくと、その、寝起きのタイミングだった。
もしかしたら単にタイミングの問題じゃないのか。
そうして疑ってみると、自分が不機嫌になるパターンがあることにに気づいた。
・眠い時
・腹が空いている時
・体が疲れている時
これだけだった。
それ以来僕は自分の機嫌が悪くなると、その3つに当てはまらないか考えてみることにした。
そして、どれかが当てはまれば、ああ、これは生理的欲求で、俺の理屈なんか、ただ早くそれ解消したいが為だけに組み立てられただけなんだよ、と、寧ろ、無駄なシナプスの運動にほのかな虚しさすら覚えてしまうようになった。
そうして、僕が怒りの中で確立していた理屈は、
専らこの3つの生理的現象で説明されるようになり、
そのうち使うかもと取っておく包装紙程度の意味になった。
そもそも夫婦生活は、言ってみれば幾分かは動物的なものだ。
家の中で相手より自分が正しいと思ったら、考えてみればいい。
「俺、腹減ってるんじゃないか?」
結婚、おめでとう。
8/14/2012
ある駐在会社員の日常2 同僚の死
5年か10年仕事をしていれば、職場での事故が発生することもある。
だからこと組織内で安全活動も行われるわけだけど、残念ながら完全には避けられないのが現実の世界だろう。
この間、僕の同僚が死んだ。
出張中に自動車事故に遭った。
僕は、他の場所で、そいつの会社の為の会議をして、帰り道、上司と愚痴のような話していたところだった。僕の電話が鳴り、それに出たが、電話の相手は第三者で、些細な用事だった。僕がその電話している間に上司の電話が鳴り、僕は第三者と喋りながら横で話している上司の会話を聞き、何か起こったことに気付き、上司は測道の植え込みの端に座り込み、僕は電話の向こうの相手に不自然に大仰に話し、電話を切り、上司も電話を終えた。
亡くなったそいつとは、一緒の職場で働いていた訳ではなかったけれど、そいつが入社してきた時の紹介写真は俺が撮ったし、そいつの会社の為に何度も稟議資料は作ったし、重要な会議には何度も同席した。
去年の10月に出張に出かけていった時には、たまたま祝日があったので、ドライブに誘ってくれた。行き先は会社から一時間くらいのちょっとしたリゾート地で、大きなプールの周りにコテージやカバーニャが立っているようなホテルが幾つかあるところだった。一緒に行った奴の家族旅行の下見も兼ねて行ったのだが、男三人でブラブラしていたら、そいつが「おい見ろよ」といって、日本人ならストライクゾーンに入ってこないほど大きい尻の女性を指差して「最高だなぁ」と他のもう一人と眺めていた。俺は「あんた結構偉いのに」と思って、おバカ映画の様にニヤニヤしているその二人を遠目に、他人のふりをして待っていた。
そんなことを思い出す。
まだ僕が日本にいた2010年にも病気で同僚を亡くした。
身近な人の死を受け入れる時に僕が思うのは「死を忘れるな」ということだ。
別に memento mori という警句を知っていたわけじゃない。
僕は自分に子供が出来た時に、あぁ、俺はいつか死ぬんだな、とはっきり感じた。
子供ができる前は、死は今ほどリアルじゃなかった。
と同時に最近は自分が生きてきた意味はあったのかもしれないと思うようになった。
死と生が表裏なんだと思った。
先に無くなった人の分まで立派に生きようとか、未熟なのか、まだ思えないけど
たぶん僕はもう死を忘れないと思う。
だからこと組織内で安全活動も行われるわけだけど、残念ながら完全には避けられないのが現実の世界だろう。
この間、僕の同僚が死んだ。
出張中に自動車事故に遭った。
僕は、他の場所で、そいつの会社の為の会議をして、帰り道、上司と愚痴のような話していたところだった。僕の電話が鳴り、それに出たが、電話の相手は第三者で、些細な用事だった。僕がその電話している間に上司の電話が鳴り、僕は第三者と喋りながら横で話している上司の会話を聞き、何か起こったことに気付き、上司は測道の植え込みの端に座り込み、僕は電話の向こうの相手に不自然に大仰に話し、電話を切り、上司も電話を終えた。
亡くなったそいつとは、一緒の職場で働いていた訳ではなかったけれど、そいつが入社してきた時の紹介写真は俺が撮ったし、そいつの会社の為に何度も稟議資料は作ったし、重要な会議には何度も同席した。
去年の10月に出張に出かけていった時には、たまたま祝日があったので、ドライブに誘ってくれた。行き先は会社から一時間くらいのちょっとしたリゾート地で、大きなプールの周りにコテージやカバーニャが立っているようなホテルが幾つかあるところだった。一緒に行った奴の家族旅行の下見も兼ねて行ったのだが、男三人でブラブラしていたら、そいつが「おい見ろよ」といって、日本人ならストライクゾーンに入ってこないほど大きい尻の女性を指差して「最高だなぁ」と他のもう一人と眺めていた。俺は「あんた結構偉いのに」と思って、おバカ映画の様にニヤニヤしているその二人を遠目に、他人のふりをして待っていた。
そんなことを思い出す。
まだ僕が日本にいた2010年にも病気で同僚を亡くした。
身近な人の死を受け入れる時に僕が思うのは「死を忘れるな」ということだ。
別に memento mori という警句を知っていたわけじゃない。
僕は自分に子供が出来た時に、あぁ、俺はいつか死ぬんだな、とはっきり感じた。
子供ができる前は、死は今ほどリアルじゃなかった。
と同時に最近は自分が生きてきた意味はあったのかもしれないと思うようになった。
死と生が表裏なんだと思った。
先に無くなった人の分まで立派に生きようとか、未熟なのか、まだ思えないけど
たぶん僕はもう死を忘れないと思う。
8/02/2012
ある駐在会社員の日常 1 外国語
海外それも非英語圏で駐在をしていると、たいていまず「言葉はどう?大丈夫?」と聞かれる。
二年勤務した実感から言うと、この質問はあまり重要に感じられないので、答えるのが難しい。
語学研修期間が長ければ当然その分外国語は上手くなるし、すぐ現場投入されれば、そこそこのまま何とかしてやり切るしかない。それだけのことだ。
そして、外国語ができたところで、仕事ができなければ意味がない。
いや、言葉が流暢でなければ仕事にならないだろうと思われるかもしれないが、必ずしもそうでもない。それは現地法人の経営環境による。日本語だけで済んでしまう環境の人もいるだろう。ただ、通訳人員を置くほどの余裕がある企業も限られているし、現地化が進んでいる企業の方が多いと思う。
現地化が進んでいて、駐在員は現地語を使い管理職として働くことを想定しよう。
その環境で下のAとBの二人がいるとする。というか実際にいる。
A 現地語は流暢に話せるが、現地スタッフと衝突しがちな駐在員
B 外国語に苦手意識を持ち、気後れして持っている力が発揮できない駐在員
どちらも実際に駐在員に十分ありうるケースだが、どちらにも足りないものがある。
Aは言語運用能力が無い。つまり巷で言うところのコミュニケーション能力だ。コミュニケーション能力という言葉は「人間力」のように何を指しているのか判りづらいが、僕は「自分のやらなければならない事を明確にし、他人に説明でき、理解してもらい、その為に必要な協力を引き出す能力」のことだと考えている。
僕は今まで、外国語習得能力と言語運用能力は一体不可分のものであると無意識に思っていた。けれど、この2年間の経験で、その二つは全く別の能力だと考えるようになった。TOEICで900点とっても英語喋れないとかいうことではなく、喋れるのに意図を通ずることができない人がいるということだ。
よく考えれば、日本語でも何を言ってるのかわからない奴というのは何処にでもいる。でも外国語をペラペラしゃべっていると、何か頭が良さそうに見え、意味がありそうなことを喋っているように思われてしまったりする。この”スモーク”の様な、逆色眼鏡の存在(つまるところ外国語コンプレックス)が、日本人の外国語に関する姿勢を歪めているように感じる。
一方、Bのパターンのようにせっかく日本で実績を積んで認められて海外に赴任しても、外国語コンプレックスでそれが十分に発揮できず、実力が発揮できないというケースがある。はっきり言うと、この場合は本人に実務能力が無いと断じられてしまう。外国語ができないことより、言葉で気後れしてしまうこと自体が現地スタッフからみたら子供じみて見えてしまう。その上、実際に仕事を遂行していけないから、本社から見ても実力なしと映ってしまう。
違う角度から考えてみる。例えば、日本で働いていて、いきなり上司がフランス人になったとしよう。その上司はまず絶対日本語を喋らない。勉強すらしない。であなたが必死に英語でも勉強するハメになるのだ。
上のケースで職場を新興国、フランス人をあなたに置き換えてみればいい。なぜ上司であるあなたが気後れしないといけないのか。むしろ英語ですら話せなくても関係ない。グローバルスタンダードと自分の職場の公用語が同じである必要など全くない。
ところで僕は外国語に関して「気持ちが大事」「気持ちがあれば通じる」という言い方が嫌いだ。僕からすると、それは殆ど何も言っていないに等しい。そもそも気持ちがないなら海外で働いていないはずだ。
上のAとBの両ケースで共通するのは、自分の意図を伝え、相手の意図を汲み、物事を進める力の必要性だ。僕はこれを裏打ちするのはロジック、論理性だと考えるようになった。思うに、それは「気持ち」で解決するものではない。その「気持ち」自体に文化の違いが埋め込まれていて、逆効果になることもある。というかそういった文化の差異を乗り越えられるのがロジックだと思う。
翻って、日本語でも何言ってんだかわからない人が意外に多い理由は、日本の教育で論理的思考を鍛える学習がおざなりになっているからではないかと思うに至った。つまり、この論理的思考能力は決して海外だから必要になるものではない。他人と理解し合う為に必要なのだ。
自戒を込めて。
二年勤務した実感から言うと、この質問はあまり重要に感じられないので、答えるのが難しい。
語学研修期間が長ければ当然その分外国語は上手くなるし、すぐ現場投入されれば、そこそこのまま何とかしてやり切るしかない。それだけのことだ。
そして、外国語ができたところで、仕事ができなければ意味がない。
いや、言葉が流暢でなければ仕事にならないだろうと思われるかもしれないが、必ずしもそうでもない。それは現地法人の経営環境による。日本語だけで済んでしまう環境の人もいるだろう。ただ、通訳人員を置くほどの余裕がある企業も限られているし、現地化が進んでいる企業の方が多いと思う。
現地化が進んでいて、駐在員は現地語を使い管理職として働くことを想定しよう。
その環境で下のAとBの二人がいるとする。というか実際にいる。
A 現地語は流暢に話せるが、現地スタッフと衝突しがちな駐在員
B 外国語に苦手意識を持ち、気後れして持っている力が発揮できない駐在員
どちらも実際に駐在員に十分ありうるケースだが、どちらにも足りないものがある。
Aは言語運用能力が無い。つまり巷で言うところのコミュニケーション能力だ。コミュニケーション能力という言葉は「人間力」のように何を指しているのか判りづらいが、僕は「自分のやらなければならない事を明確にし、他人に説明でき、理解してもらい、その為に必要な協力を引き出す能力」のことだと考えている。
僕は今まで、外国語習得能力と言語運用能力は一体不可分のものであると無意識に思っていた。けれど、この2年間の経験で、その二つは全く別の能力だと考えるようになった。TOEICで900点とっても英語喋れないとかいうことではなく、喋れるのに意図を通ずることができない人がいるということだ。
よく考えれば、日本語でも何を言ってるのかわからない奴というのは何処にでもいる。でも外国語をペラペラしゃべっていると、何か頭が良さそうに見え、意味がありそうなことを喋っているように思われてしまったりする。この”スモーク”の様な、逆色眼鏡の存在(つまるところ外国語コンプレックス)が、日本人の外国語に関する姿勢を歪めているように感じる。
一方、Bのパターンのようにせっかく日本で実績を積んで認められて海外に赴任しても、外国語コンプレックスでそれが十分に発揮できず、実力が発揮できないというケースがある。はっきり言うと、この場合は本人に実務能力が無いと断じられてしまう。外国語ができないことより、言葉で気後れしてしまうこと自体が現地スタッフからみたら子供じみて見えてしまう。その上、実際に仕事を遂行していけないから、本社から見ても実力なしと映ってしまう。
違う角度から考えてみる。例えば、日本で働いていて、いきなり上司がフランス人になったとしよう。その上司はまず絶対日本語を喋らない。勉強すらしない。であなたが必死に英語でも勉強するハメになるのだ。
上のケースで職場を新興国、フランス人をあなたに置き換えてみればいい。なぜ上司であるあなたが気後れしないといけないのか。むしろ英語ですら話せなくても関係ない。グローバルスタンダードと自分の職場の公用語が同じである必要など全くない。
ところで僕は外国語に関して「気持ちが大事」「気持ちがあれば通じる」という言い方が嫌いだ。僕からすると、それは殆ど何も言っていないに等しい。そもそも気持ちがないなら海外で働いていないはずだ。
上のAとBの両ケースで共通するのは、自分の意図を伝え、相手の意図を汲み、物事を進める力の必要性だ。僕はこれを裏打ちするのはロジック、論理性だと考えるようになった。思うに、それは「気持ち」で解決するものではない。その「気持ち」自体に文化の違いが埋め込まれていて、逆効果になることもある。というかそういった文化の差異を乗り越えられるのがロジックだと思う。
翻って、日本語でも何言ってんだかわからない人が意外に多い理由は、日本の教育で論理的思考を鍛える学習がおざなりになっているからではないかと思うに至った。つまり、この論理的思考能力は決して海外だから必要になるものではない。他人と理解し合う為に必要なのだ。
自戒を込めて。
7/22/2012
日本人の法意識(岩波新書)の感想文
日本へ帰る機会があったので、合計30冊くらい本を買って帰ってきた。
仕事用と趣味用とに大別されるわけだけれど、僕の場合仕事の本と趣味の本はつながることが多い。先日読んでいた「日本人の法意識」(岩波新書)もその一つだ。
もともと松岡正剛の「方法日本」シリーズを読んでいて、その中でこの本が取り上げられていたので興味を持って買ったのだった。この方法日本シリーズ3冊はこれまで読んだ本の中でも特に印象に残る本だった。松岡氏の千夜千冊のストックを下敷きに話が展開されるため、中身が濃密な上に、「もう少しこの点を掘り下げたい人はこの本を読んでみてください」という風に、外に開いているので、知的好奇心を維持したまま次の読書につなげて行けるのだ。また主題も「日本らしさとは何か」というところから、我々は自分の持ち場でどう「日本らしさ」を活かすのかという問いにしていくことができるのだ。というか、それが氏の言う方法日本であると私は理解した訳だが。
書かれたのは1967年である。内容は日本人がそれまで持ってきた法意識が、ドイツ・フランスが中心とする近代法のそれとどう異なっているのかを説明している。
この本によれば、日本における近代法の整備は治外法権の撤廃の条件として求められていたもので、国民的議論から生まれたものでも、醸成されたものでもない。
私は読み進めるうち、2010年代の今も、戦前の法意識というのは私たち日本人に抜きがたく残っていて、それがグローバル経済において「日本の常識は世界の非常識」といわれる様々の根底であることを改めて確認されられた。つまり、欧米列強の要求に対峙した明治とグローバリズムに退治している今日の日本は本質的に変わっていない。
ともするとグローバルスタンダードの何がしを理解するには、そのルールを学習し身につけなければならないと考える訳だけれど、それ以上に自分たちは物事をどう考えているのか、どのような癖があるのか、ということを学ばなければ自分たちの弱みにつけ込まれ続けるだろう。
例えばビジネスの世界で「アライアンスを組んでいる相手が、損だけを押し付けて逃げる筈が無い」というのが典型的な日本人の思考回路だろう。そんなことをすれば当事者間だけでなく業界内で信頼を失ってしまう、と。しかしそういうことが平気で行われるのがグローバルスタンダードかもしれない。では我々は我々の中に抜きがたく残っている日本人的倫理観をどのように現実とすり合わせて行くのか。それを考える一助になる一冊だと思う。
仕事用と趣味用とに大別されるわけだけれど、僕の場合仕事の本と趣味の本はつながることが多い。先日読んでいた「日本人の法意識」(岩波新書)もその一つだ。
もともと松岡正剛の「方法日本」シリーズを読んでいて、その中でこの本が取り上げられていたので興味を持って買ったのだった。この方法日本シリーズ3冊はこれまで読んだ本の中でも特に印象に残る本だった。松岡氏の千夜千冊のストックを下敷きに話が展開されるため、中身が濃密な上に、「もう少しこの点を掘り下げたい人はこの本を読んでみてください」という風に、外に開いているので、知的好奇心を維持したまま次の読書につなげて行けるのだ。また主題も「日本らしさとは何か」というところから、我々は自分の持ち場でどう「日本らしさ」を活かすのかという問いにしていくことができるのだ。というか、それが氏の言う方法日本であると私は理解した訳だが。
ちなみに僕はこの三冊の中で二冊目が最もフックした。というのも日本の近代がどうしてこうなったのか、という点ににじり寄っていたからだ。
その中で、「日本人の法意識」が紹介されているのだが、始めは参考のつもりで読んでいたのだけれど、これは自分の部下・後輩に進めたい本だと思っている。書かれたのは1967年である。内容は日本人がそれまで持ってきた法意識が、ドイツ・フランスが中心とする近代法のそれとどう異なっているのかを説明している。
この本によれば、日本における近代法の整備は治外法権の撤廃の条件として求められていたもので、国民的議論から生まれたものでも、醸成されたものでもない。
私は読み進めるうち、2010年代の今も、戦前の法意識というのは私たち日本人に抜きがたく残っていて、それがグローバル経済において「日本の常識は世界の非常識」といわれる様々の根底であることを改めて確認されられた。つまり、欧米列強の要求に対峙した明治とグローバリズムに退治している今日の日本は本質的に変わっていない。
ともするとグローバルスタンダードの何がしを理解するには、そのルールを学習し身につけなければならないと考える訳だけれど、それ以上に自分たちは物事をどう考えているのか、どのような癖があるのか、ということを学ばなければ自分たちの弱みにつけ込まれ続けるだろう。
例えばビジネスの世界で「アライアンスを組んでいる相手が、損だけを押し付けて逃げる筈が無い」というのが典型的な日本人の思考回路だろう。そんなことをすれば当事者間だけでなく業界内で信頼を失ってしまう、と。しかしそういうことが平気で行われるのがグローバルスタンダードかもしれない。では我々は我々の中に抜きがたく残っている日本人的倫理観をどのように現実とすり合わせて行くのか。それを考える一助になる一冊だと思う。
7/18/2012
JAL wifiを使ってみた
JALがWifiサービスを開始するという7月15日の成田ーNY便に乗ることになっていたので、使ってみました。
結論として失敗。
成田ーNY線の機内では、機内販売とかの冊子と一緒にWifi利用方法の案内が挟まれいて、
9月末までは一時間無料キャンペーン中ということで、乗客に専用IDとパスが記載されたカードが配られので、そのPassで試してみた。 なおこの無料ID/Passはスクラッチカードを削った後に見えるようになっているのだが、IDがやたら長く文字が小さい上に、スクラッチの銀色と文字の灰色が混ざって非常に見づらい。
![]() |
この名刺大のカードの裏にスクラッチがある。 |
さて、機内に飛んでいるWifiに繋いでブラウザを立ち上げるとJAL-Wifiのサイトに飛ばされ、よくある「表示されている文字を入力してください」の認証が要求される。次に、それをクリアするとT-mobileのサイトに飛ぶ。僕のMack Book Proではここで認証ができなかった。先にもらった無料ID/Passを入力するのだが、やたら時間が掛かったあげく、「技術的な問題が発生しました」が出るばかり。
嫁のもらったスクラッチカードのID/Passも使ってみたが、やっぱりだめ。ブラウザを変えても駄目。それで、フライトアテンダントに聞いてみたら、Wifi担当者を呼んでくれて、その人に質問してみたのだが、他の乗客はiPadとかで接続できていたそうだ。サービス自体はOSを限定しているわけではないのだが、僕のPC固有の問題かもしれないとコメント。なのでiPhoneをつかってトライしてみたがやっぱり駄目。
しかしWifi担当者として飛行機乗って旅行できるのっていいなとか思ってしまった。フライト先での休暇くらい数日は取れるだろう。
なおこの担当者が食事後のタイミングで一斉に接続したせいかもしれないとのことだったので、時間を変えてやってみたが、今度は「現在使用できません」とのメッセージ。Wifiは捕まるのだが、ネットへの認証でアウトになる。
サイトの説明に依ると、北極圏近くや特定の国上空だと使用できないことがあるらしい。この時カナダ上空だったのだが、カナダが使用許可を出していないとは考えづらいので、北極圏マターだろうと思いたい。
![]() |
カナダ北部で出た画面 (右上に「衛星接続無し」とある) |
ということでNY到着3時間前でもまだネット接続に成功できなかった。ちょっと仕事をやろうと思っていたので、これは結構痛い。上空から「わははーい」とツイートもしようと思っていたので、残念だ。
左前の席の人はSkypeをやっていたが、二つ隣の席の人も繋がらなくて困っていた様子だったので、MacBookの問題でもなさそうだ。サービスとしてはまだ結構不安定なのかな。
仕組みとしては機体に取り付けられたアンテナから地上の基地局につながっているらしい。担当者の人がビジネスクラスのAPにアクセスが集中しているかもしれないと言っていたので、おそらく機内にいくつかAPがあるのだろう。なおWifiはどのクラスでも使用可能とのこと。
料金は一時間約12ドルor24時間約20ドルなのだが、一旦開始すると接続を切ってもカウントは止まらないらしいので、こんな接続状態ではちょっと有料で使う気起きませんねーのレベルだ。
北極圏に近づくルートだと尚更だろうな。ということで私のような素人にはお勧めできない。
7/07/2012
異なるアライアンス間での預け荷物の無料範囲
先日チリから日本へ帰国するのに、サンチャゴからLANチリでNYのJFK空港を経由し、ANAで日本向けという経路で飛んだ。
LANチリはOneWorldなのでJAL系なのだが、ANAはStarAllianceでもビジネスクラスは個室感がパないので、乗れる時は乗ることにしたのだった。
それは良いとして、アライアンスの違うエアラインの乗り継ぎ時に問題になるのが、無料預け荷物の制限がどうなるかだ。
海外駐在者にとっては一時帰国は食料調達の数少ないチャンスなので、荷物をいくつ何キロ持てるかというのは重要なのだ。
今回の帰国の前に、日本からロス経由サンチャゴへのフライトで同じようにANA-LANで飛んだ事があった。その時に手荷物制限についてANAのサイトで調べたのだった。
基本的にANAのビジネスは二つまで預け荷物は無料だ。
http://www.ana.co.jp/int/guide/baggage.html
ただ、それと別に「提携他社が運航するコードシェア便、他航空会社便が含まれるご旅程」として下記の記載がある。
ただ今回JFKのANAカウンターでは、すんなり通らなかった。三つ目の荷物には100ドル掛かるというのだ。マネジャーの人も出てきて、これは無料範囲外だと言われたのだ。曰くLANとANAはアライアンスが無いので、荷物についても合意が無いとか。そこで僕は「払うべきものは払うけど、この間は無料だったよ」と言ったところ、きちんと受け止めてくれて調べてくれた。それで、確かに無料になっている、調べますのでちょっとラウンジでお待ちください、ただその結果有料となった場合にはお支払い頂きますということになった。
で、ラウンジで待っていたのだけれど、ANAのラウンジにはコンビニのおにぎりがある。それが海外駐在には滅茶苦茶旨い。なんでこんなに旨いのおにぎり。
そうして待っていたら、ちょっと小便がしたかったのだけど、マネジャーが来て、やっぱり有料になるとのことだった。「まぁそれはいいけど、一応僕の理屈を説明するね」という感じで、実際にそう言った訳ではないけど、前述のANAのサイトの記載を見せて、それから僕のE-Ticketを見せて、だから僕はこれは3個無料と判断したんだということを説明した。そうしたらマネジャーの人が、"I understand your point"と言って、ちょっと旅行会社にコンタクトしてみると言うことで、もう一度戻っていった。
実はこのマネジャーさんは日本語ができない人(たぶん米国人)だったので、ANAの日本語サイトを訳してもらうのに、日本人スタッフの人を呼んでもらっていた。といってもANAもちゃんと英語サイトを整備していて、最終的にそれを見たのだけれど。
で、その人が僕らのやり取りしている時に、僕のE-ticketを見て「これは旅行会社が(独自に)出しているものなのでは?」と言ってきた。ずいぶん当てずっぽうなことをいうんだな、と思ったけど、結構日本人はそういう風に当てずっぽうなことを言って、何となくその場を収めようとする。和を以て尊しと為すというヤツだ。個人的には、そういうの気持ちは解らなくはないが、もうそういう世の中じゃなくなってしまったと思う。
それで、最終的にマネジャーの人が帰ってきて、「旅行会社にもコンタクトした結果、確かに3PCになっている。ただANAのシステムでは2PCになっているんだ。」それで僕も何故ANA側がWebに書いてあるのと違う対応に拘るのか理解できて「Ah, now I understand you」とかなんとか言ってたら、マネジャーさんが、「確かに貴方の言う通りなので今回は無料にします。ただシステム上の問題があるので、今後これを解決して、その結果もしかしたら2個ということになるかもしれません。」ということだった。
まぁ今後2個になってしまったとしたら、ちょっと残念だし、議論始めてから終わるまで途中インターバルも含めて2時間弱掛かったのだけれど、僕としてはそのマネジャーさんに誠意持って対応してくれたので、全く不快感はなかった。
久しぶりにBlogを書いたのだけれど、何で書きたくなったかというと、今回の出来事が日本のエアラインで、いわゆる日本的ではない解決に落ち着いたからだ。マネジャーさんも日本語は通じなかったし、2度有料だと言われても、こちらの主張を説明したら、それが通って無料になった。
海外駐在前の僕だったら、そこまで議論せずに払ってしまえという感じになっていたかもしれない。日本では企業側もクレーマー扱いにしてオッケーしとけという話になっていたかもしれないし、もしかしたら僕の一回目(ロス経由の時)もそういう対応だったかもしれない。そういう等閑なところを残さず、はっきりできたので気持ちがよかったのだ。
LANチリはOneWorldなのでJAL系なのだが、ANAはStarAllianceでもビジネスクラスは個室感がパないので、乗れる時は乗ることにしたのだった。
それは良いとして、アライアンスの違うエアラインの乗り継ぎ時に問題になるのが、無料預け荷物の制限がどうなるかだ。
海外駐在者にとっては一時帰国は食料調達の数少ないチャンスなので、荷物をいくつ何キロ持てるかというのは重要なのだ。
今回の帰国の前に、日本からロス経由サンチャゴへのフライトで同じようにANA-LANで飛んだ事があった。その時に手荷物制限についてANAのサイトで調べたのだった。
基本的にANAのビジネスは二つまで預け荷物は無料だ。
http://www.ana.co.jp/int/guide/baggage.html
ただ、それと別に「提携他社が運航するコードシェア便、他航空会社便が含まれるご旅程」として下記の記載がある。
”無料手荷物許容量:原則としてお客様の航空券面上に記載された無料手荷物許容量が適用されます。こちらをご参照ください”これを見て、僕のE-ticketには3PC(piece)という記載があったので、3つまで無料と判断してカウンターにチェックインした。そうしたら、やっぱりというか、引っかかったのだけれど、その時は自分のE-Ticketを見せたらすんなり通った。
ただ今回JFKのANAカウンターでは、すんなり通らなかった。三つ目の荷物には100ドル掛かるというのだ。マネジャーの人も出てきて、これは無料範囲外だと言われたのだ。曰くLANとANAはアライアンスが無いので、荷物についても合意が無いとか。そこで僕は「払うべきものは払うけど、この間は無料だったよ」と言ったところ、きちんと受け止めてくれて調べてくれた。それで、確かに無料になっている、調べますのでちょっとラウンジでお待ちください、ただその結果有料となった場合にはお支払い頂きますということになった。
で、ラウンジで待っていたのだけれど、ANAのラウンジにはコンビニのおにぎりがある。それが海外駐在には滅茶苦茶旨い。なんでこんなに旨いのおにぎり。
そうして待っていたら、ちょっと小便がしたかったのだけど、マネジャーが来て、やっぱり有料になるとのことだった。「まぁそれはいいけど、一応僕の理屈を説明するね」という感じで、実際にそう言った訳ではないけど、前述のANAのサイトの記載を見せて、それから僕のE-Ticketを見せて、だから僕はこれは3個無料と判断したんだということを説明した。そうしたらマネジャーの人が、"I understand your point"と言って、ちょっと旅行会社にコンタクトしてみると言うことで、もう一度戻っていった。
実はこのマネジャーさんは日本語ができない人(たぶん米国人)だったので、ANAの日本語サイトを訳してもらうのに、日本人スタッフの人を呼んでもらっていた。といってもANAもちゃんと英語サイトを整備していて、最終的にそれを見たのだけれど。
で、その人が僕らのやり取りしている時に、僕のE-ticketを見て「これは旅行会社が(独自に)出しているものなのでは?」と言ってきた。ずいぶん当てずっぽうなことをいうんだな、と思ったけど、結構日本人はそういう風に当てずっぽうなことを言って、何となくその場を収めようとする。和を以て尊しと為すというヤツだ。個人的には、そういうの気持ちは解らなくはないが、もうそういう世の中じゃなくなってしまったと思う。
それで、最終的にマネジャーの人が帰ってきて、「旅行会社にもコンタクトした結果、確かに3PCになっている。ただANAのシステムでは2PCになっているんだ。」それで僕も何故ANA側がWebに書いてあるのと違う対応に拘るのか理解できて「Ah, now I understand you」とかなんとか言ってたら、マネジャーさんが、「確かに貴方の言う通りなので今回は無料にします。ただシステム上の問題があるので、今後これを解決して、その結果もしかしたら2個ということになるかもしれません。」ということだった。
まぁ今後2個になってしまったとしたら、ちょっと残念だし、議論始めてから終わるまで途中インターバルも含めて2時間弱掛かったのだけれど、僕としてはそのマネジャーさんに誠意持って対応してくれたので、全く不快感はなかった。
久しぶりにBlogを書いたのだけれど、何で書きたくなったかというと、今回の出来事が日本のエアラインで、いわゆる日本的ではない解決に落ち着いたからだ。マネジャーさんも日本語は通じなかったし、2度有料だと言われても、こちらの主張を説明したら、それが通って無料になった。
海外駐在前の僕だったら、そこまで議論せずに払ってしまえという感じになっていたかもしれない。日本では企業側もクレーマー扱いにしてオッケーしとけという話になっていたかもしれないし、もしかしたら僕の一回目(ロス経由の時)もそういう対応だったかもしれない。そういう等閑なところを残さず、はっきりできたので気持ちがよかったのだ。
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